統計解析係 鈴木誠
1 江戸の人口の成長と停滞
1590年、家康の江戸入りと同時に城下町の建設が始まり、その約20年後、江戸を訪問したフィリピン臨時総督ロドリゴ・デ・ビベロ(スペイン人)は、
江戸の人口を15万人と記録しています(『日本見聞記』1609年)。全国の人口は1200万人と推測されており、今の東京都と同程度でした。
なお、以下の数値は推定であり、目安程度に考えてください。
その約120年後の享保期(1716〜1735年)、江戸は世界最大の百万都市に成長し、全国は3100万人でした。
江戸時代の前期には、全国的な人口の激増があったのです。
ちなみに、1800年頃の諸都市の人口は、北京90万人、ロンドン86万人、パリ54万人でした。
さらに約130年後の弘化期(1844〜1848年)、江戸は110万人、全国は3200万人と余り増えず、江戸も全国も停滞していました。
世界最大は、産業革命を迎えたロンドンの240万人で、工業化や交通機関の発達による影響がいかに大きいか分かります。
江戸における人口の成長と停滞には、現代の東京に相通じるものがあり、歴史的な興味にとどまらず、近年の人口問題を考える際に、
ヒントや問題意識を与えてくれます。
2 大開発の時代と人口の激増
江戸時代の前期に人口が激増した要因について、「参勤交代や明暦の大火を重視する見方」と、「耕地面積の拡大を重視する見方」があります。
前者の見方は、参勤交代により、全国の諸大名が強制的に江戸に居住させられたため、また、明暦の大火後に、江戸の拡大が進むと同時に、大火後の復興景気を当て込んで、
大勢の商人が江戸に進出したため、商業が活発になり江戸に人口が集中したと考えます。
なお、この江戸の拡大の過程で、いわゆるドーナツ化現象が発生したことが当時の記録に残っています(甲斐庄正親「御役人代々記」1673〜1704年)。
後者の見方は、江戸時代前期は、大開発の時代といわれるほど、全国的に新田開発が行われ、農産物の生産量が飛躍的に増えた結果、出生率が上昇し、
農村で過剰になった人口を都市が吸収したと考えます。いわば高度経済成長と同様にみなすのです。
これら発想の異なる考え方は、多角的な視点から観察や分析することの必要性を思い起こさせてくれます。


3 人口の停滞と少子化・晩婚化
江戸時代の後期に人口が停滞した要因についても、「飢饉の頻発を重視する見方」と、「出生率の低下と晩婚化を重視する見方」があります。
前者の見方は、小氷河と呼ばれる気候寒冷化により凶作が頻発したり、大地震や富士山・浅間山の噴火など相次ぐ自然災害により飢饉が頻発したため、
人口が停滞したと考えます。
後者の見方は、大開発の時代が終焉して、耕地の拡大が鈍化するとともに、文明が成熟して、出生率の低下と晩婚化が起きたと考えます。
つまり、女子は、早く結婚してたくさんの子供を生む必要がなくなって、商家や武家へ奉公に出るようになり、少子化が始まったのです。人口停滞は、
耕地開発の鈍化に対応した、豊かな生活を維持するための、意識的な出生抑制の効果であるとみなすのです。
こうして総人口の増加がストップした結果、高齢者の比率が上昇して、高齢化も進みました。そのうえ寿命(平均余命)も伸びたと考えられています。
このあたりは、現代における経済成長の鈍化と少子高齢化の関係と似通っています。
4 豊かな社会と近代への胎動
このように、人口の面では停滞していましたが、経済社会の発展も停滞していた訳ではありません。農業の面では、新田開発にかわって、
湿田から乾田へ耕地改良工事が盛んになり、インディカ米からおいしいジャポニカ米への転換が起こりました。
また、経済面ではプロト工業化(産業革命に先行する工業化)が進み、綿作、養蚕、織物、醸造、鉱業などの産業が全国的に発展しました。
人口が停滞したため、米に対する需要の伸びは小さく、米作に代わる産業が発達したと考えられています。
文化面をみても、隠居して道楽に生きる人々が増えて、成熟した大人の文化が育ち、俳諧、浮世絵、歌舞伎などの町人文化が花開きました。
この町人文化は1860年代のヨーロッパにジャポニスムを引き起こすほどの影響力を持っていました。
400年前に遡って、人口の成長と停滞を探ってみると、社会経済分析の視野が広がり、また、新しい問題意識を与えてくれるのです。
《参考文献》
大石学「首都江戸の誕生」(角川選書)
鬼頭宏「日本の歴史19 文明としての江戸システム」(講談社)
幸田成友「幸田成友著作集 第2巻」(中央公論社)
新保博・斎藤修編「日本経済史2 近代成長の胎動」(岩波書店)
竹内誠「大系日本の歴史I江戸と大坂」(小学館)
速水融・宮本又郎編「日本経済史1経済社会の成立17〜18世紀」(岩波書店)(五十音順・敬称略)(以上)